秋を代表する花「菊」の魅力に迫る!▽邪気を払い長寿をもたらすとされた菊で祝う「重陽の節句」▽紫式部も歌に詠んだ「菊」の若返り効果??▽わずか2週間だけ群生する京都北山友禅菊▽嵯峨天皇が菊に見た自然界の在り様を伝える重陽の生け花▽1本の枝に千輪の菊を咲かせる「千輪菊」の圧巻!▽19世紀末ジャポニズムにわくヨーロッパで花開いたラリックの菊の芸術▽陶芸家が白磁に咲かせる菊の技とは?<File616>
初回放送日:2024年9月18日
美の壺
菊。その花は不思議な魅力で、人々を虜にします。古より、九月九日は重陽と呼ばれ、菊づくしの節句が行われてきました。菊の力で厄を払い、長寿を願う行事です。平安時代から続く、嵯峨天皇ゆかりの門格式高く生けられる重陽を祝う菊。京都北山の山里の空気は、神秘的な菊の花を咲かせます。福島県二本松には、菊の匠が手塩にかけて育てた一本の茎から、千輪の花が咲き誇ります。陶芸では、革新的な手法で菊が咲かせられます。日本の文化とともに歩んできた、香り高い菊の魅力に迫ります。
「千年咲きほこる 菊」
夜明けを迎える京都の北部、左京区久多地域。人口わずか七十人の集落です。朝日に浮かぶのは野菊の畑。日が昇るにつれて、菊は青の色を濃くしていきます。北山友禅菊。この地域に自生していた菊科の植物、米菜を品種改良し育てました。栽培に携わってきた常元治さんです。
「この北山地区に新たな特産物を作ろうということで、平成七年からこの北山友禅菊を作り始めました。野に咲く花は、やはり野に咲いているのが一番似合うと思いますし、この秘境の地で風景丸ごと見ていただくというのが一番美しいかなと思っております。」
北山の風景を借景として、常元さんは休耕田を菊畑に変えていきました。菊が毎年見られるように、挿し木をして菊を増やしています。夏になるとひたすら草むしりに追われます。雑草が一本残るだけで、種が散って白や黄色の花をつけてしまうからです。「私としては、全く一面で畑ということで、それを徹底して雑草取りをしています。」
山の端に夕日が沈む頃、菊の畑はまた彩りを変えていきます。
「北山友禅菊」は、京都市左京区久多地域に自生していた野生菊であるチョウセンヨメナ(キク科の宿根草・野菊と呼ばれるもののひとつ)の系統の中から特に強建で栽培しやすい系統を選抜したもので、1997年から京都市左京区久多地域で栽培されています。
今日、一つ目のツボは、手塩にかけて、
福島県二本松は、城下町として栄えました。二本松の菊の歴史は、江戸の終わり頃から始まったといいます。江戸後期に編纂された「日本罰の不時愛」には、九月の年中行事の項目にこう記されています。「箕輪門の下には、三百株もの菊の花が並べられ、多くの人が花を見に訪れ、カネ尺を使って花の大きさを測り楽しんでいた。」毎年十月に行われる菊まつり。箕輪門にはたくさんの菊が並べられ、今も昔も菊は多くの人を魅了します。菊まつり用の菊を栽培している農園にて、菊作り二十年の本田京一さんがいます。
「雨や風にさらされないよう育てている特別な菊があります。じゃあな、大きな傘のような仕掛けで、ドーム型に組んだ金具に菊の枝を這わせています。朝一番に液体肥料を入れた水を与えます。竹はやっぱり肥料が命みたいなもので、ただの根っこだけじゃ育ちませんが、やっぱり養分を入れて、花が大きく咲くようにしています。」本田さんは、ジョウロに長いパイプをつなげて土全体がまんべんなく潤うように水を与えます。水の量は少なすぎても多すぎてもいけないそうで、毎日菊と向き合い、葉の色で元気かどうかを見分けるといいます。
「だいたいこういう色を保っていれば大丈夫です。これがもっと薄くなったら、肥料が足りない証拠ですね。」二ヶ月後には花芽がたくさんついて、千輪もの花が咲く『千輪作り』が仕上がります。この菊は、実は一本の茎から四方に枝が伸び、千の花をつける、まさに奇跡の菊です。二本松でも、この方法で栽培できる人はごくわずかです。
多くの花を咲かせるためには、毎日欠かせない作業があります。それは、左右中央の三方向から出てくる芽の真ん中を摘み取ることです。そうすると、脇芽が伸び、花の数が増えていきます。力のない葉っぱは花の咲きを悪くするため、密集した枝に隙間を作り、光と風を十分に与えます。日々の細やかな手入れによって、菊は少しずつ大きくなっていきます。
農園の夕暮れ、本田さんは温室を巡ります。夜の帳が降りるころ、明かりが灯りました。菊は秋になり日が短くなると花芽をつけるため、祭りの時期に満開にするために夜も明かりを当て、日照時間を調整します。
「手をかけながらも良い花が咲くかどうか、いろいろ考えながら、あの手この手で世話をしています。一年間、花が咲くまで目を離せませんね。」菊の匠の熱い想いが、今年も千輪の花を咲かせます。
京都大覚寺は、平安時代の初めに佐賀天皇の離宮として建立されました。佐賀天皇は中国の湖を模した大沢の池で船遊びをしていた際、浮島に咲く菊を摘んで花瓶に挿したと伝えられています。
そこから生まれた華道の流派が「嵯峨御流」です。代表の辻井美香さんはこう語ります。「菊は嵯峨御流にとってとても大事な花なんです。九月九日は重陽の節句で、別名を菊節句とも呼ばれているんですよ。」
重陽とは中国古代の陰陽道に由来し、九という数は縁起が良いとされ、それが二つ重なる九月九日を「重陽」と呼びます。「重陽の節句では、一番大事な菊が強い力を持つんです。しかし、あまりに強すぎると陰の気に傾く可能性もあります。そこで邪気払いと長寿を願うために、菊を生けるのです。」
菊は邪気を払い、不老長寿の力を宿すとされます。まずは黄色の菊を生け、次に白菊の茎をねじって生けます。「自然の花もまっすぐに立っているわけではなく、少し揺らぎながら成長していきます。このように自然界のありようを見つめながら、花を生けます。」
重陽の節句では、菊を五色で表現するのが伝統です。順番は白、木、赤に加え、青と黒があります。青は葉の緑を指し、水を貼ることでその水を黒として表現します。「この五つの色は、この世の万物を象徴しているのです。」
重陽の節句を祝う生け花は、菊を使って小さな宇宙を表現します。菊は平安時代から宮中の貴族たちに愛されてきた花です。「このような伝統文化を菊の花を通じて、これからも広めていきたいと考えています。」
今日、二つ目のツボはフーガなひととき
京都の西神明に、明治18年に建てられたかつての五福堂屋があり、ここでは長寿を祈り、厄払いを行う9月9日の重陽の節句が、今もなお暮らしの中で大切にされています。その節句の祝いのしつらえを、13代目当主の田中峰子さんに見せていただきました。
「重陽の節句は、菊を使った料理をいただく行事です。菊はもともと中国から薬草として日本に伝わり、菊を使って健康や長寿を祈る習慣が根付いたのです」と田中さんは話します。
まず、食用菊の柔らかな花びらをさっと茹で、甘酢に浸した菊の和え物が用意されます。さらに、鯛の昆布締めには花びらをたっぷりと添えて、一層の彩りを加えます。田中さん自慢の一品は、「重陽にちなんで作る菊のお寿司です。ちらし寿司の上に錦糸卵をたっぷり乗せ、その上に再臨の菊をイメージして、菊の花びらを散らしています」と誇らしげに紹介します。
節句の祝いは、まず家神様へのお供えから始まります。屋敷の一番奥に鎮座する家神様に、家内安全や商売繁盛を祈り、菊酒を献上します。庭に目をやると、まるで雪を被ったかのように咲き誇る菊の花が見えます。
「重陽の節句に欠かせないのが、この『着せ綿』です。綿を菊に被せて一晩置くと、菊の露を吸い込んだ綿が、体を清めるために使われます。これを使うと、まさにアンチエイジング効果があると言われています」と田中さんは説明します。
菊の香りには、リラックス効果をもたらす成分が含まれていると言われています。平安時代には、紫式部がこの「着せ綿」を藤原道長の妻から贈られ、次のような歌を詠んでいます。
「菊の露、若湯ばかりに袖触れて
花のある字にチヨは譲らん」
菊の露に触れることで、ほんの少し若返る気分を味わいながら、長寿を祈る大人の節句です。この美しい文化を、忘れずに受け継いでいきたいものです。菊づくしの重陽の宴では、しばしの間、平安の雅に心を寄せるひとときを過ごしました。
1900年に行われたパリ万国博覧会で、特に人気を博したのがフランスのジュエリー作家ルネ・ラリックでした。彼が自らデザインした展示ブースには、新作のアクセサリーが百点以上輝き、その美しさが来場者を魅了しました。
ラリックはジュエリー作家として頂点を極め、その作品の中には日本の菊の花をモチーフにしたものも含まれていました。当時、ヨーロッパで流行していたジャポニズムの影響により、西洋の美術や工芸においても菊の花が頻繁に登場するようになり、ラリックの作品にもその影響が色濃く現れていました。
箱根にある美術館「ラリック美術館」には、ラリックによる菊の作品が数多く展示されています。官能的な女性の体に絡みつくのは、野山に咲く菊の花。その美しさが表現されています。1900年のパリ万国博覧会では、菊に関連した作品が展示されたという話もありますが、実際にラリックがそれに関わっていたかどうかは定かではありません。しかし、菊はラリックにとって非常に魅力的な花の一つであったことは確かです。
その後、ラリックはガラス作家としても活躍し、菊の花は彼に新たなインスピレーションを与えました。特に香水瓶の大きな蓋には、愛らしいヒナギクがデザインされています。彼のジュエリー時代の渦巻くようなデザインとは対照的に、シンプルでモダンなデザインへと変わっていきました。
変幻自在にデザインされる菊の花は、ラリックの作品において、なんと時計の文字盤の上にまで描かれています。菊はラリックの生涯を通して、彼の作品における重要なテーマであり続けました。
ルネ・ラリックは、19世紀から20世紀のフランスのガラス工芸家、金細工師、宝飾デザイナー。アール・ヌーヴォー、アール・デコの両時代にわたって活躍した。 前半生はアール・ヌーヴォー様式の金細工師・宝飾デザイナーとして活躍し、その分野で名声を得ていた。
今日最後の壺は、魔晶の魅力に取り憑かれて、
京都清水寺に続く通称「茶碗坂」。ここに、百年を超える歴史を持つ清水焼の工房があります。
四代目の林優子さんは、代々受け継いできた白磁の技を用いて、革新的な菊の作品を作っています。どのような菊ができるのでしょうか。
林さんはろくろを回し、まだやわらかな白磁にハサミを入れていきます。「今、焼き物を切っているのは、眉毛切りバサミです。いろんな刃物屋さんを回って、いろいろなハサミを試してみましたが、眉毛切りバサミがちょうど花びらを切るのに適していたんです。このカーブが、花びらを持ち上げるのにぴったりなんです。」
「和菓子のハサミ菊からヒントを得て、土もハサミで切れるのではと思い挑戦しました。すごくワクワクして、新しい装飾ができるかもしれないと思い、自分でも楽しんで没頭しました。」和菓子の技法の一つである「ハサミ菊」は、練り切りをハサミで切って作る菊の形の菓子です。しかし、陶芸と和菓子では大きな違いがありました。
林さんが使っている土は、祖父や父が改良に改良を重ねた特別なもの。温かみのある色と透明感が特徴です。「透明感を出すために使っている骨灰の量に悩みました。骨灰を多く入れるとエッジが立ちにくく、割れやすくなります。土の調整には大変苦労しましたが、ようやく立体的な花びらを作れる土にたどり着きました。」
しかし、苦労は続きます。工房の片隅には失敗作がいくつも並びます。ハサミを深く入れすぎた部分が、釜で焼くと収縮して割れてしまうのです。林さんは、ハサミを入れる微妙な角度を試行錯誤しながら、ついに理想的な菊を咲かせました。
完成したのは、白菊をかたどったペーパーウェイトです。ハサミを極限まで浅く入れ、16時間かけて一気に仕上げた菊の花びらは、幻想的な美しさを放っています。「ハサミで菊を切り始めてから、自分の世界が広がりました。これからも新しい作品を作り続けていく中で、菊の花が私の根幹にあり、菊を通じてさまざまなものがつながっていくのだと思います。私にとって菊は、とても大切な存在で、それはこれからも変わりません。」
平安時代から千年以上咲き続ける菊の花。日本の文化に寄り添い、今も清々しい香りと彩りを私たちに与えています。