イッピンSP「しなやかに逞(たくま)しく 〜復帰50年・ 沖縄の工芸 その軌跡〜」

沖縄復帰後の50年は工芸の世界にも激しい変化をもたらした。ガラス、焼き物、染物の各分野で工芸家たちがどんな困難に会い、それをどう乗り越え、進化させたかを見る。 今年、復帰から50年の沖縄。この間、人々の暮らしだけでなく、沖縄の工芸も大きく変化した。ガラス工芸は伝統を持たなかったため、かえって斬新な技法が試みられ、結実する。独自の染め物・紅型では、伝統のくびきを脱して、表現の可能性を広げていく。また焼き物では、復帰後、公害という新たな問題の発生で、従来の作陶が不可能になる。陶芸家たちは生き残りをかけ、多様な挑戦に乗り出す。沖縄の工芸、50年の軌跡を追う。

初回放送日: 2022年5月14日

イッピンSP「しなやかに逞(たくま)しく 〜復帰50年・ 沖縄の工芸 その軌跡〜」

今年は沖縄の本土復帰から五十年
白がえじゃん最終的な色の衣
天のオープンです
どうぞ二月那覇市である
人物の作品展が開かれました
復帰五十年に合わせ
その業績を記念するものです
親父から癖を受けた
こういう沖縄の瓶型をまた更に本土復帰して
あの少しは内地の着物の
似たようなものを作りましたので
皆さんよろしくお願いします
会場に飾られたのは沖縄伝統の染め物
紅型の遺書
その第一任者城間栄順さん
本土復帰後の仕事の集大成です
うん自分たちはもう祖先の残したその技をね
どうにかあのー伸ばしていきたいというはい
あとはですね
もうずっとこれだけ
頭にはそれしかなかったと思うんですよ
太平洋戦争末期激戦地となった沖縄うんうん
元民のこの四人に
一人が犠牲になったと言われています
戦後も日本に戻ることはなく
二十七年にわたって
アメリカ占領時代が続きました
そして千九百七十二年の本土
この激動の時代に
見事な発展を遂げたのが工芸品です
沖縄はガラス工芸の盛んな場所の一つ
琉球ガラスと呼ばれます
家賃群と呼ばれる沖縄の焼き物も
自由な表現を求めて
多様化していきました
あんまり今私たちが目にする
沖縄の工芸品
それは復帰五職人たちの工夫と努力で
進化を重ねてきたものなのです
沖縄の焼き物って何ですか
一言では答えられない
この多様性っていうものを生み出してきた
っていうのが
やっぱりこの五十年だと思っています
伝統工芸品とはあのー
このようにして作らなければいけないという
あの規制や定義っていうのがなかったがゆえに
色んな新しいことに挑戦
をすることができた
琉球ガラス谷地む
そして紅型それぞれが辿った五十年の奇跡
それは沖縄の人々が
自分らしさとは
何かを探り続けた道徳でもありました

琉球ガラスには青い海や大空
そして太陽のイメージが投影されています
これほどまでに色彩が豊かになったのは
実は復帰後のことでした
五十年の間に大きな進化を見せた琉球ガラス
そのこれはアメリカの占領
時代にありました
戦後基地に赴任するため
大勢の軍人や
その家族がアメリカからやってきました
彼らはアメリカと同じような生活をするために
様々なガラス製品を注文します
上原独造さん
琉球ガラスを代表する職人の一人です
千九百六十七年
十五歳でこの世界に入りました
例文の方がよく来てたのは覚えてます
奥さん方でほとんど来たのが
奥さん型の奥さん方がね
いろんな雑誌とかを持ってるのは
見たんですけど
過敏とかねもうよく作っていましたよ
英語で書かれた雑誌を見せ
これと同じものを作って欲しい
というのです
そんなガラス製品を目にするのは
初めてでした
職人たちは見よう見まねで
懸命に注文に答えました
うん例えばパンチボールセット
ホームパーティで使われるものですが
見事な出来栄えです
うんその材料となったのは
廃棄された隣でした
ガラスの原料が不足していたのです
うんアメリカ軍が持ち込んだ清涼飲料水や
ビルの便兵士たちがのみをして
捨てていった
また機敏を再利用することにしたのです
そのことが既知で話題になります
古い便があとにアメリカ人たちは
沖縄の職人たちの技術に感心しました
うんうんついにはカタログが作られるまでになり
本国アメリカからも
注文が来るようになりました
米軍の配便を利用し
米軍に売ることで
ガラス工芸は成長しました
そこに転機が訪れます
千九百七十二年の本土復帰です
沖縄本日そこの奥に復帰いたしました
こんにちは行こう
私たちはどうもによって
喜びと悲しみをともに
分かち合うことができるのであります
日本語版

日本人観光客が
押し寄せました
もうぱすぽとはいらないのです
沖縄らしい土産物を探して
ガラス製品に注目します
今度はねない本当の方の方がいけない
工場も買ってきてね
あいいないいなって
だんだんこれからいろんなのが何ですか
観光相手の作るようになった
と思ってはいます
アメリカの軍人から
日本の観光客は顧客の交代です
求めるものも変化しました
アウト水色スカイブルとブルとじゃん
沖縄のイメージで
海と空っていうのはイメージで
よくその色が出ていました
それは南国沖縄のイメージにふさわしい
カラフルなガラス製品でした
職人たちはその要求に必死で
答えようとします
はい便を使うしかなかった
以前と違い原料も
豊富に入ってくるようになりました
うん独自の表現を求める職人たち
上原さんもどうしたら斬新な色を出せるか
研究と工夫を重ねます
使う色の数も
どんどん増えていったといいます
これも何色か
沖縄の宣伝の四色ぐらいから
もう十色ぐらい増えたりね
体もすごかったですね
やがて色と色の組み合わせに
興味を持つようになります
より繊細で複雑な色合いを表現したい
三十八歳の頃
格好の材料を見つけました
カラフルな破砕ガラスカレットです
これですねいろんな投げ方によってですね
いろんな模様がデザインが出てくるんですよ
全く同じになってますできません
どういったのが上がってくるのか
私もわくわくする
その楽しめたのがまた嬉しいんですよ
以後今日まで三十年以上
カレットを使った
技法の探求を続けています
今度は美しさあるから
気を付けてないと思われないように
その独特の技法まず銀箔を巻き付けます
その上に透明なガラスを被せます

ここでカレットを使います
どの中にカレットを投げ込みます
す数十種類もあるカレットの色
その中からどの色を選ぶか
それが長年の課題でした
これもやりてこの色も焼いてあの色も寝て
最初は二色で混ぜたそうな三食四食
ご食特色って増やしていきましたけど
あまり増えすぎてもね
メタイメージっていうのが
ちょっと強いかなと
また少なければちょっと弱いかなと
使う色が多すぎると
混ざり合って濁ってしまう
黒や濃い赤色が強すぎて
全体のバランスが悪くなる
えー結膜のホテルとかでもいいです
試行錯誤を重ねながら
上原さんが選んだのが五色でした
五歳銀天上原さんが復帰後
五十年をかけています
聞いた到達点となる作品です
赤青水色緑黄色それは
沖縄を象徴する五つの色
うん銀色が表わす時の流れの中で
移ろいゆく様を表現したといいます
うん今考えてみますとね
よく頑張ったな
五十年間これはね分作りたい作りたい
そういうのね
繋がりで長く思ったんじゃないかと
今でもそう気持ち悪い一緒です
はい復帰後職人たちが果敢な挑戦を続けたこと
それが琉球ガラスを発展させたと
専門家は言います
清水ゆり子さん沖縄で現場の職人達を取材し
この五十年の変遷を研究しています
琉球ガラスは
琉球ガラスっていう名前があるんですけれども
非常に新しいあのま歴史浅い歴史であるがゆえに
色んな新しいことに挑戦をすることができた
伝統工芸品とはあのー
このようにして作らなければいけないという
あの規制や定義っていうのがなかったがゆえに
琉球ガラスの中で
あのー新しい表現として受け入れられていった
というようなはい
あのところが言えると思います
職人たちが挑んだのは
色の追求だけではありませんでした
占領下で生まれた
あるものを積極的に生かすことから
新たな可能性を開きました
それは泡です
はい便を原料に作られた占領下のガラス製品
はい瓶の中の不純物が
どうしても入ってしまいます
当時のカタログにこんな注意書きがあります
手作りのため気泡がありますが
取り除くことはできません
はい瓶を使ったためにできる記法
アメリカ人は大目に見ました
しかし日本人はできそこないだと
受け止めました
そんな評価に
猛然と反発したガラス作家がいました
稲嶺基地さん泡をなくせとは
沖縄の戦後を否定することではないか
大きな侮辱ですよ
家にとってはね
だからあのーなんでこうあのーとうん今だからね
リサイクルとかね
きれいな言葉がありましたね
だから昔だったらもうはい便で捨てたもので
物を作ってるというようなね
あの呼ばれ方指定されたわけです
魚ガラス製品を作ってみせる
泡だらけのガラスを作って
みんなに認めさせよう
四年間研究を重ねて生み出したのが
この器です
まるで茶の湯の茶碗のような重厚な存在感
しかし当初この器を評価するものは
ほとんど言いませんでした
こんにちは稲嶺さんの長男誠一郎さん
父の元を離れ別のガラス工房で働いていた
若い頃面と向かって言われた一言が
忘れられません
お前の親父はアホになってよってはいはい
正直言われましたね
やっぱり自分もやっぱり向こうにいて
青は駄目って習ってるから
なんでこんなおかしなことしてるのかなって
もうあの時は思いましたけどね
マイナスに評価されてきた
青プラスに変える器全体に泡をつけ
それを見所にするにはどうすればいいのか
正樹さんはさまざまな不純物をあえて
混ぜることにしました
うん砂糖塩小麦粉
お茶の葉身の回りにある
あらゆるもので試しました
しかしそのほとんどが熱でガラスに溶け込んでしまい
阿波にはなりません
うん効果を発揮したのは
備長炭を砕いたものかれこなどでした
周囲の人々が白い目で見ようと
お構いなしでした
試作を重ね一歩ずつ前進しました
作品を初めて県
外の展覧会に出した時のこと
その斬新さが注目を集め
評価が一変することになります
南の積算が
泡を大胆にガラス作りに取り入れてくれた
ことによって他の職人の方々もあ会う
というのは排除しなきゃいけないものではなく
て表現の一つとして使っていいんだ
じゃあ自分だったらどうしてって
自分のガラス作りに生かしていこう
とりいれていこうという風にえーと
考えがこう変わってきたと思います
そういった選択肢を一つ増やしたというところが
稲嶺さんが
その琉球ガラスの作り政策に泡を取り入れ
経験の一つだと思います
父親の成し遂げたことの意味を理解した
誠一郎さんは
改めて弟子入り必死で
泡ガラスの製法を学びました
はい今も原料ははい便
そこから泡ガラスの可能性を
さらに広げようとしています
父が使った備長担当かれ
ここの二つを路に入れ
互いの効果を高めます
配合にも工夫を凝らしました
今日はあのー荒い
彼はもうちょっと表現した過敏で
嵐表現を泡ガラスをさらに進化させたり
注目したのははい瓶の色でした
泡を付けることでベースとなる
はい瓶の色が微妙に変化するのです
ブレーンの一つの便でも
七種類とか八種類の色が出せるんですよ
あの入れることによって
色が変化していくんですよ
だから結構考えたらなんか奥が深いですよ
いや今回使ったのは青と緑に四季のはい瓶
それがどう変化するのか
完成した花瓶です
青いはい瓶ガラスの上に
焼き物の釉薬のように流れる緑と飴色
互いの色が重なるところは
さらに深い色合いです
いい親父が作り上げたものを
まずは最後までやりたいなっちゃって
それが本当のね沖縄の歴史とともにね
自分の人生の中で
この泡ガラスをずっと追求して
もう終わりっていうのは絶対ないと思う
はい便を再利用するところから始まった
琉球ガラス復帰後
常識にとらわれない
独創的な表現を追求した五十年でした

琉球舞踊その踊り手が身に纏うのが
紅型という染物の衣装
琉球王朝では
高貴な身分のものしか
着ることが許されませんでした
鮮やかな色彩と大胆な柄が特徴です
瓶型は柄を放り込んだ
型紙を作る記事に当てて糊付けします
その後鮮やかな顔料で染め上げていきます
その技総計と呼ばれる
三つの家にだけ伝えられてきました
太平洋戦争は
紅型に致命的な打撃を与えました
そう気が守ってきた
型紙や道具の全てが
戦火に焼かれたのです
何もないところから
紅型を復活させようとした人が
いました
城間栄喜さん城間紅型を守り伝えてきた
三つの宗家のその十四台でした
はいさんの息子えー純さん
紅型の復興は
道具を作りなおすことから始まった
と言います
とにかくこう道具ね
それを探したり
なんかして探すと言っても米軍のね
ガラクタ捨てるところはね
また捨てるところがありましてね
金金起きるパイプ起きる鋸があるんですよ
これぐらいのね
金切り残っててでこれの折れたやつとかね
そういうものを拾ってきて
旅行の行為を型紙
はねあのかたかた心がけて
これは米軍向けの絵葉書
紅型で初め出されています
どんなものでもいい
とにかく紅型の技を絶やさないことだ
そんな思いで
のれんやタペストリなども手がけました
うんこれがアメリカ兵の土産物として
少しずつ売れるようになります
そして迎えた本土復帰沖縄は
日本からの観光客で沸き立ちます
三年後には海洋はくが開かれ
沖縄の物産が更に注目されるようにうんはい
紅型の小物も売れ行きが良く
職人たちの暮らし向きも改善されました
その頃純さんは
ある挑戦をしていました
日本の置物を紅型で染めてくれないか
という注文が来ていたのです
名古屋帯染めてくれとか振袖染めてくれとか
五万五千人がやってくれとか
名前は知ってますよ
どういうもので
どういう役目をするかも分からないし
お茶席とかね
あるいは色んなあの声を
日本の文化がありますよね
そういうものも知らないでしょ
もう一度衣装を染める仕事がしたい
大中さんは決意します
しかし日本と沖縄の着物の間には
大きな違いがありました
日本の置物は
袖や背中の縫い目のところで
柄が繋がっています
ぼかしも縫い目をまたがって
綺麗に染めなければなりません
うん一二三です
それに対して沖縄の着物は
縫い目で柄が繋がっていません
そこが柄の切れ目になるよう
デザインされています
日本の着物を作るには
型紙の作り方から
変える必要があったのです
えー純さんは京都の染物屋に出向き
染め方を一から学びました
その挑戦に強く反対したのが
父の役さんでした
その時のことをえー純さんは語りません
息子のお父さんが伝え聞いた
祖父の言葉を話してくれました
もう着物も切る人もいなくなるで
日本はどんどん近代化に向かうから
もっともっと着物を着る人がいなくなるから
こういうあの大変であの買う人もいない
この仕事はもうやめなさい
って言ってたらしいです
それから小物作りを続けなさい
っていうことを言ってたらしいですけど
しかしえー純さんは
挑戦を諦めませんでした
紅型は和服の世界でも十分通用するはずだ
認めてくれる人がきっといる
そう思っていたからです
ええ純さんは
これまでの瓶型の決まり事を
変えることにしました
ショウブの花やしだれ桜
意外なことに
王朝時代から紅型で描かれてきたのは
日本の草花か
そうでなければ中国風の達などでした
こうした衣装が
日本や中国からの施設をもてなす
踊りに使われたのです
うんところが
えー純さんは
その伝統に従いませんでした
沖縄らしい自然の風物を
柄に選んだのです
うんこの古典柄の解析法を生かしてね
他に何か沖縄の飯得るものはないか
と思いついたのがこう高揚サンゴ礁のね
あれは初心と下側の柄ですね
あうちはあのよく海もグッタリ
おやじと一緒に逆らっつくったりして
色んなあのお味の感謝をよく知ってるし
またねって不足
この色のねだから
強いのはもう本当にみずみずしくてね
素晴らしい色なんですよ
えー純さんの試みに
そんなことをしていいのか
という批判の声が上がりました
うん瓶型っていうのは
本当にあの変えてはいけない
っていう部分世界だったんです
元々うんで父がかなり変えてしまったんです
けれども王様の衣類を外に潜るなんて
とんでもないっていうことで
結構批判も受けたらしいんですけど
復帰を果たし日本の中で生きていく時代
紅型も変わる必要がある
そうでなければ瓶型は滅びてしまう
そう思っていました
自分たちはもう祖先の残したその技をね
どうにかあのー伸ばしていきたいという
ほっきあとはですね
もうずっとこれだけ
頭にはそれしかなかったと思うんですよ
うん紅型を沖縄の人だけのものではなく
日本中の人が楽しめるものにする
その試みが紅型の世界を押し
広げていったのです
紅型の今を担う作り手たち
先人たちの思いを引き継ぎ
紅型を更に身近なものにしよう
としています
白負けと共に今に続く
紅型の総計千年目です
投手の千年当麻さん
四年前十代目として
工房を引き継ぎました
生活の様々な場所で紅型を使ってもらいたい
知念さは仲間たちとともに
紅型を使うジャンルを
広げようとしています
その一つがインテリア臨画他の衣装を着て
鼻がさをかぶった
琉球舞踊の踊り手を描きます
はい華やかな色の取り合わせと優雅な踊り
はいその美しさは
紅型で描くのがふさわしいと考えたのです
このパネルが部屋を飾ったとか
人目を引くようなものでありたい
そこから沖縄に対する親しみが湧くもので
ありたい
沖縄って一目で伝えられるようなものがいいな
と思って人々が紅型が目に入る機会
人間と知る機会
っていうのを増やしていこうと思って
いる中ででもそこはパネルだろうが
着物だろうが
ちゃんと琉球びんが立って分かるような
そういった作品作りを心がけてます
ぼかしの技隈取も
着物の時と同じようにつけていきます
先人たちが切り開いた道の上で
自分たちは仕事をしている
そのことをいつも意識しているといいます
職人達は自分達の仕事がしたいっていう
行っては絶対に変わらなくて
どんなに求められるものが変わろうが
自分たちが瓶型を作る
っていう信念だけは
絶対に書いてこなかった
この当時戦後紅型がないからって言って
その瓶型を復興させるといったそれこそ
あの代物駅先生だとか先生だとか
そういった人たちっていうのは
ある意味その沖縄を作ろうとしてた
近いと思うので
やっぱりそこうん
うんずっとリスペクトして作り続けたいそうです
おはようございますおはよう
ございますうん
今年八十八歳のベジを迎える城前ジョンさん
記念の作品店が開かれました
会場に飾られた帯や着物
その数は百点を超えました
紅型に革新をもたらし
同時に和風の世界に新風を吹き込んだ
ものばかり
えー純さんがたどり着いた境地を示すのが
この作品
和服の中でも格式の高い訪問記です
その約束を守り
肩周りと裾の部分にだけ
色が入っています
柄の色は次第に薄くなり
最後はなくなります
しかし便新しくからは全体に施されています
うん和服と瓶型の融合えー純さんは
それを今もひたむきに
追い求めているのです
だからね私も
自分で驚いている自分の年でね
まだ普通だったら昔はね
七十音聞いたらよぼよぼとね
庭いじりぐらいしかやらないけど
ここなんてぴんぴん歩いてるから
復帰から五十年
絶えざる挑戦で飛躍を遂げた紅型
その物語はこれからも続きます

高額それは日本の高度
経済成長の暗い一面でした
それが復帰直後の沖縄を揺り動かします
うん舞台は那覇壺屋地区
沖縄の焼物家賃分の中心地として
普段使いの器を盛んに作っていました
そのために使われたのが
大量生産に適した登り窯
問題はその煙でした
登り窯は多くの薪を燃やします
その煙が郊外だとされたのです
公害防止条例が可決され
壺屋で登り窯を使用することが
禁止されました
復帰と同時期のことでした
もうここで焼き物は作れない
なるほどそう考えた投稿がいました
近所ジロウさん
後に人間国宝となる家賃分の第一人者です
新たな窯場を求めて
那覇から北へ
およそ三十キロ読谷村に移り住みます
うん群その跡地でした
そこで焼き上げた作品
野生に溢れる魚が描かれています
うんこの二人だような使い色合いが
その焼き物の特徴です
うん移り住んですぐ気づいた登り窯うん
この日まで理想の焼き物を
追求していきました
うん島袋常秀さんもまた
壺屋を飛び出した一人です
はいもう一度上りがまで焼き物を作りたい
その思いが募り
近所さんを頼ることにしたのですが
やはり僕も上りがまたきたい
という思いが強いもんですから
何とかそのどっかに
上りがまたける場所じゃないかということです
ずっと来たの
やんばるの方から探し回ってきて
えーやったけど
あんまりそういう土地が見つからなくて
ですねえー海たん
近所ジロウさんが変わってきてると
これ一緒にできないかなと思いがありまして
読谷は自分にとって新天地だったと
島袋さんは言います
ここは薪置き場ですね
上りがはいここに置いてて
こっからまたカバに運ぶという感じです
五十年前近所さんが作った登り窯は
今も現役です
この釜の一部を島袋さんは借りています
何かもう計がちょっとないのであれですけど
なぜ登り窯にこだわるのか
そのわけを話してくれました
こういうあのなんでもないように見えますけど
登りだとこの炎が当たるもんですから
記事の赤土の色がこういう
あの茶褐色に変化するんですね
ただあの透明かけてるんだけど
土の色が変化するです
却下職人体で要するに鞄を焼いたっていう感覚
上りが持って自分の仲間も入れ
てそれから薪をくべてという
そういうこう焼き物を焼いてるよという感覚
そういうのは
やっぱり登りじゃないと味わわない世界ですから
そういうまあ体感っていうですかね
それ絶対やりたくてしょうがなかったですね
壺屋はその後どうなったのかふーん
高江洲義さん壺屋に残った
窯元の一人です
愛知県の瀬戸で修行し
本土復帰を前に壺屋に帰ってきました
その直後に登り
窯が使えなくなったのです
以来ガス釜を使っています
高橋さんには
壺屋を離れる訳にはいかない
事情があったのですが
これは若い時にはなと思ったんだけど
それで気が付いたらば
僕は本当長男の長男だから
ちゃんと場所がある訳ですよ
もうこっから抜けちゃいけないなという感じ
柴田さんです
壺屋の家賃の火を消してはならない
高橋さんはガスがまと向き合い
その可能性を探り続けます
また大きいから盛るもの
いっぱい大きいの作る訳鎌を埋めてるね
だかが捕まって言ってからす
実は見る坪とかそれから醤油だな
それで少しずつ日用雑貨に書いてあったうん
これもほらただえつけてなくてあのー
ちょっと工夫された千本りがあったり
その中でちょっと赤いれたり
うん重み付けじゃなくて千本りと赤いところね
うん筆だけど
ペタっていった感じがあったのが
めっちゃいるとか掘り下げてくるわけだよ
壺屋に帰って
まもなくガスがまで焼いたビルジョッキです
中央に描かれた唐草模様は壺屋を象徴する絵柄
上下の幾何学模様は
器を放り込んで
線をつける線上りの技法によるもの
それから五十年
工房の家賃右派線
彫りが中心になりました
唐草模様も千本りだけで
表現されています
高橋さんの娘若菜さん
父の努力を見てきた若菜さんは
壺屋をもう一度活気づかせたい
と思い続けてきました
つぶやきのことが書かれてる本で
今も壺屋では登り窯があのたけなくなったので
読谷に移って行きました
みたいな終わりみたいな感じであるんだよ
私たちここにいますけど
みたいなすごいなんか寂しさとちょっとなんかこう
悔しさみたいなのは
当時はすごく思っていて
若菜さんが目指したのは
現代的なスタイルの家賃う
専門のデザイナーを交えて
模索を重ねました
それよりもちょっとちっちゃいぐらいかな
出した答えは千本りを強調すること
ガスがまでは登り
窯のように複雑で
深い色合いは出せません
うんその代わり線
彫りのくっきりとしたラインは
ガス釜の方がよく出ると考えたのです
お皿の色も思い切って一色にしました
大皿としても使える家賃うん人気は上々です
うん自分たちがあの一番見せたい
あの作品が何かっていったときに
線彫りの方がこうなんか華やかに
奇麗に表現ができる
っていうのがなんかあったのかな
と思っていて
まあちょっと繊細というかま
細かい表現っていうのをまガス我慢とか
豊山の方が
そういう表現としてはきれいにあの出てくるので
それがあのあったような技法がセンブリかな
と思っています
読谷村に金城さんが登り
窯を作ってから六年後
大きな変化が訪れます
新たに四人の投稿たちが
昨冬を始めたのです
壺屋出身の者はいません
近所さんたちを読谷の第一世代とすれば
第二世代になります
その中心的存在が大嶺磁性さんですね
米軍の弾薬処理場だった
広大な敷地を借り受けましたですね
ここ伝統に縛られず
自由に家賃文を創作できる場所にする
それが大嶺さんの理想でした
二年の準備期間を経て
千九百八十年
新しい登り窯を使った
家賃分作りが始まります
うん彼らはデジたちの指導にも
熱心でした
読谷は沖縄の陶芸の中心地と
みなされるようになります
うん全く壺屋とは出身ではない
人たちも含めて
焼き物っていうのをやってみたい
これは単なる産業ではなくて
自分を表現できる
場っていう風に焼き物が選ばれてで
そこに多くの人たちが
参加をするようになってきた
っていうのは
すごく大事なことだと思いますね
それから十二年
大嶺さんたちのもとで修行していた四人が
独立第三世代です
共同で登り窯を使いながら
それぞれが自分の理想を追求し
ていきました
彼らは戦前の壺屋王朝時代の家賃に刺激を受け
その表現は多様化していきます
様々な表現を可能にしたのは
自由な空気でした
あるものは革新的な技法を試みます
あるものは伝統に立ち返るや
チームは全国的な
注目を集めるようになります
沖縄の焼き物って
何ですかに一言では答えられない
この多様性っていうものを生み出してきた
っていうのが
やっぱりこの大きな五十年だ
と思っています
その中に先祖代々
焼き物をずっと作り続けている人たち
壺屋の人たちがいて
壺屋出身ではないんだけれども
沖縄の伝統的な焼き物をぜひ
作ってみたいんだっていうことで
焼き物作りを始めた人達がいて
実はこの多様性っていうのが
今の沖縄の焼き物の非常に大きなああ強み
なのかなと
いう気はしているんですね
第三世代の一人
松田米司さん逸品では七年前
その創作の様子を取材しました
下書きもなくリズミカルに
唐草模様が描き出されます
そのおおらかな筆さばき
こう内地の絵付け
みたいに書くじゃないですよ
こう何かを枝を描く
葉っぱを書くんじゃなくて
こう紋様になってる
まあまとまると
まあなんとなくが落差になって
何か心開いちゃったら心開いちゃった
っていう時ここから
ピュッと入れておくんですよ
だからなんだか入れたらあまあいいかなるし
おおらかで自由であること
それは沖縄の人間の気質そのもの
自分も仲間もここまでやってこられたのは
それがあったからこそだと
マツダさんは言います
なんか考え頭もなかった
怖さ知らずのはい
もう走って気持ちを走っていたので
その走れねま重ましたっていう感じもあるけれど
でも一つ信念があったのは
沖縄の焼き物はすごいんだ
これは世界中どこに持っていっても
なんでこれはということはないんだよね
すごい信じているマツダさんの息子
健吾さんも焼き物の道を歩んでいます
つぼやで登り
窯の火が消えるところから始まった
復帰後の五十年
その中で投稿たちは
それぞれの理想を懸命に追求し続けました
はあ研吾さんはそのことを噛みしめながら
次の時代と向き合いたいと言います
沖縄で物を作って
沖縄の人として生きるなら
これだみたいな感じで
進んでいっただろうな
っていう印象を受けますね
この釜が動けば
あとここば三千年て
こっちからものが生まれてたら本望だ
みたいな感じで親方たちも言ってるんで
まんまというよりは
時代に合わせながら行けたら
いいんじゃないかなっていうそうですね

うん復帰から半世紀の間
ここでしかできない表現を求めて
職人たちが開花させた沖縄の工芸
これからもしなやかにたくましく
変化し続けていきます

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