北野武さんが初登場!いま心ひかれる画家ピカソを語りつくします!浮かび上がる二人の意外な共通点とは?北野さんが選ぶ1枚の傑作から見えてきたピカソの意外な魅力は?!
20世紀最大の画家パブロ・ピカソが初めて自らのスタイルを確立したのが「青の時代」。悲哀を青で表しました。北野武さんも「キタノ・ブルー」と呼ばれる、青が印象的な映画を監督しています。なぜ二人とも青?ピカソはその後、極端なほどスタイルを変え続けます。新たなスタイルにチャレンジし続ける北野さんは、ピカソの変貌をどう見るか?
巨匠ピカソと世界のキタノ。二人のあいだに何があるのか、とくとご覧ください!
放送:2017年4月9日
日曜美術館 「ピカソ×北野武」
「泣く女」ピカソ56歳の代表作です。悲しみと怒りが同居する作品として知られています。赤、青、黄色の色が破壊されたフォルムとマッチして感情の局地に迫っています。この絵にはモデルがいました。
当時愛人だった写真家のドラ・マール。感情の起伏が激しく、よく泣いたといいます。
ピカソはあらゆる方法を繰り返しながら何十枚という「泣く女」を描きました。
「私は対象を見たままにではなく、私が思うように描くのだ」とピカソは語っています。そんなピカソはある色で自分のスタイルを確立しました。
それを示す傑作がこの美術館にあります。「海辺の母子像」ピカソが二十歳の頃の作品です。
寒々とした青い海と青い空。子を抱く母が佇みます。当時パリを拠点として活動したピカソは監獄に通ったといいます。我が子を監獄の中で育てなくてはならなかった一人の女声の悲しみに引き込まれました。青で悲しみを描く。こうした作品が画家・ピカソの出発点でした。
近年、この絵に関して興味深い発見がありました。X線で撮影したところ、下に全く別の絵があったことが判明しました。
描かれていたのはドレスを着た町娘。下の方には花もありました。ごく普通の女性像です。調査では明るい色彩が使われていたこともわかりました。若きピカソは格闘していました。新しい表現を生み出すために。キャンバスを買う金がなければ、以前の絵を塗りつぶしてでも描き続けたのです。
スペインアンダルシア地方の地中海に面した町・マラガ。1881年ピカソはここで生まれました。
「ことばを覚えるより先に絵を描いてていた」11歳の頃のデッサンです。画家であった父親も自分を凌駕するかのような技術に舌を巻いたといいます。
1900年。19歳のピカソはパリに向かいます。しかし芸術の都は甘くなく、思うように絵は売れませんでした。ある日ともにパリにやって来た友人が自殺します。絶望の淵でそれでも筆を握り続けたピカソはあの色にたどり着きます。
青い「自画像」。青の時代の始まりです。誰にも似ていない独自のスタイルがここで初めて確立します。ピカソはピカソになったのです。
ピカソは自ら切り開いた画風を3年ほどで捨ててしまいます。現れたのは明るくなった画面。恋人もでき、少しずつ絵も売れました。どこか儚げな旅芸人たちを、柔らかな色彩で表しました。バラ色の時代です。そしてピカソはさらに変わります。
30代。「葡萄の帽子の女」。描く対象をバラバラに分解し、その存在感が引き立つように組み直しました。キュビスムです。絵画の革新者ピカソの誕生です。
40代。ギリシャ彫刻などに出会い、伸びやかな生命感溢れる作風が開花します。第一次世界大戦後のつかの間の平和な時代を反映するかのような光景。同じ画家とは思えないまで極端な変貌を遂げる画家ピカソ。「私は一枚の絵を描く。それからそれを破壊する。一枚の絵は破壊の集積である。しかし何も失われはしないのだ」と語っています。それは、スタイルを続ければマンネリ化してしまうことを意味します。また、一つのスタイルは一つの時代の象徴であり、ピカソの変化は時代の変化に応じてスタイルを変えていったとも言えるのです。
やがてピカソは戦争の時代のうねりに巻き込まれます。1936年スペイン内戦が勃発。政府とフランコ将軍が率いる反乱軍が内戦を始めたのです。そんなおり、パリ万博(1937年)のスペイン館の壁画制作を依頼されます。当初、芸術の自由を歌い上げるテーマを構想していました。しかしある悲劇が起こります。
スペイン北部の町ゲルニカをナチス・ドイツが無差別爆撃。ナチスと手を結んだフランコがドイツ軍に要請しました。ピカソはテーマを一変させます。
横7.8メートル、縦3.5メートルの大作「ゲルニカ」。叫び声を上げるかのような馬の足元には男が息絶えています。子を抱き激しくなく女の上に不思議な形をした牡牛が遠くを見つめています。この「ゲルニカ」をピカソはわずか一ヶ月で完成させます。
その過程を泣く女のモデルであったドラマールが写真に収めていました。初期のゲルニカの写真です。画面右端の家が燃えています。ピカソは当初ゲルニカへの爆撃そのものを描こうとしたのです。堂々と立つ牡牛は惨劇を引き起こしたナチスやフランコを表すかのようです。その横には天に高くかざした握りこぶしが描かれています。しかし最終的には握りこぶしも爆撃の描写もなくなり牡牛の姿も控えめになります。
ピカソは絵の細部を何度も見つめ直し、何枚も描きました。時空を超えて人々の心をつかむには・・・ピカソはこう言っています。「牡牛は牡牛。馬は馬だ。鑑賞者は結局見たいように見ればいいのだ」だからこそ読み解きたくなる稀有な傑作です。
ピカソの晩年が今見直されています。何事にもとらわれない自由奔放さ。ピカソ90歳のときに描いた作品「男の顔」(1972年)
たけしさんが注目したのは画面下半分です。
何気なく配置しているように見えます。ところがわーっとやっているようにみえること自体が、長年培ったものが一気に叩きつけたという感じになっている。髭の部分は引っ掻いているようにも見えます。 真似るという行為は、実はいいところを真似ているのではなく、わかるのは悪いところなので、それを真似ちゃうから真似事ってぜったい真似ちゃだめだと言われたことがある。あの人の真似やってみろといわれて真似て、そっくりじゃないか。そっくりってことは、いかに下手な部分をやったか。コロッケが真似するときに、いちばんひどいとこしか真似していない。似ているのはひどいところ。絵を真似するのはその画家があまり気に入っていないところを描いてしまっている可能性はある。
ピカソは次元が違う人です。空気を吸うように絵を描く。呼吸している感じまで来ちゃっている。意識していない部分が絵を描くことと同じ。 子供のようにかけるようになったということは自分で評価しなくなってしまったということかもしれない。ただ描いただけだからいいんだというところまで来ている。