今月2日、大阪に新たな美術館が誕生した。大阪中之島美術館、19世紀後半から現代まで数々の名作や近現代デザインなどを堪能することができる。誕生のきっかけは100年前のある大阪商人のコレクション。戦時中も美術品収集に情熱を傾け、関西に美術館を作りたいと願っていた。彼の夢は時代を超えて多くの人に受け継がれ美術館へと結実していく。知られざる100年の物語。
初回放送日: 2022年2月27日
日曜美術館 「大阪中之島美術館〜蒐(しゅう)集もまた創作なり〜」
大阪市中之島。
古くから大阪の経済や文化の中心だったこの地に何やら黒い建物が。
大阪中之島美術館です。
中はまさにアートワンダーランド。
十九世紀後半から現代までの名作もずらり。
日本ではここでしか見られないモディリアニの裸婦像もあれば、シュルレアリスム傑作マグリットも。
ジャン・ミシェル・バスキアも。
「こんなに数があると思っていなかったので楽しかったです」
「僕は人生全部がアートだと思っているので、近くにあるっていうのがすごいありがたいと思いました」
美術館誕生のきっかけは、大正から昭和にかけて活躍したある大阪商人のコレクション。
名画を多くの人に見てもらいたいと美術館の建設を夢見ます。
しかし時代はそれを許しませんでした。
「はいそれあの頃は仕方がありません。戦争にみんなに潰されているんですから」
その後多くの人に受け継がれ、ついに果たされた美術館建設の夢。
大阪中之島美術館。
誕生までの九十年に及ぶ物語です。
今日は大阪にやってきました。
今月の2日にオープンした仲之島美術館。
特別に夜入れていただいているんですけれども、日曜ナイトミュージアムです。
凄い天井の高さですよね。
今日の案内役の館長の菅谷富夫さんです。
よろしくお願いいたします。
上がって来る途中の開放的な空間に驚きました。
「すぐ見えるのは四角い黒い箱で、ちょっと愛想ない感じがするんですけども、中に入っていただくとちょっとドラマチックな構成というか、形になってると思います。ここはパッサージュと呼んでまして、通り抜けられるんです。一界階二階は無料空間ですので、美術館じゃなくても
ちょっとここショートカットしていこうっていう方でもですねちょっと雨降ってきたあ、どうぞどうぞっていう感じでで、ふっと見たら展覧会やってるじゃないなんて思ってここを通り言いながら色々なそういうま美術に親しんでもらう
そういう機会になっていくということでパッサージュという言い方をしています」
展示室があるのは四階と五階。
一分半かかる長いエスカレーターで向かいます。
まず訪れたのは菅野館長をおすすめのこちら。
凄いですね。
椅子だ。
ものづくりと商いの町大阪にある中之島美術館。
大切にしている収集方針があるのだそう。
「この美術館を構想する時に外部有識者、先生方がどういう美術館がここに大阪にふさわしいかということを色々とま議論していただいて、その中で工芸っていうのじゃなくて、つまりこの町は商業都市である産業都市であるというそういう歴史を持っている町だから美術館もするとしたらやはり近代デザインじゃないのか。椅子というのはですね、家具デザインの中で一番思想がよく出る。デザイナの考え方が一番よく出てるという風に言えるんじゃないかなと思います」
絵画や彫刻だけでなく生活の中の芸術を集める。
そんな方針のもと充実したのが椅子のコレクション。
アームチェア。
デザイン性あふれる豊かな暮らしを目指したウィーン分離派の作家・kolomanmoserの代表作です。
倉俣史郎の「ミスブランチ」
椅子をアートの域にまで高めた世界的な名作です。
何でも見る角度によってバラの数が変わるのだとか。
浮遊感溢れるデザインです。
続いて菅野さんが案内してくれたのは美術館誕生と深い関わりのある一枚の名画。
「これがモディリアニですね。モディリアニは裸婦につきましては、一二年ぐらいしかか描いてないんですね。このタイプのものはえですね。もう三十一点あると言われてますけども
ほとんどが世界中の有名な美術館にも所蔵されています。それぐらい非常に評価の高いもので、彼の充実した時期の一点だというように思います。肌の感じのパンとした感じ。それから何よりこの目ですよね。こちらをぐっとと同時にこう引き込むような力強い生命力だとえそれにあふれた作品だと思います」
このモディリアニの裸婦像を八十年前に所有していた人物。
その人こそが美術館が生まれるきっかけを作っていました。
裸婦像をコレクションしていたのは山本發二郎。
二十世紀の初めにメリヤス業で才覚を発揮した大阪商人です。
当時の大阪市は日本一の人口を誇り大大阪と呼ばれていました。
發次郎は時流に乗り、繊維の仕入れや販売事業を拡大させるなど確かな経営手腕を発揮していきます。
發次郎の孫、西園寺幸夫さんです。
幼い頃、兵庫県芦屋市にあった發次郎の家をよく訪れていました。
「發次郎がこちらで私の母がこれです」
西園寺さんには何事にもこだわりの強い初次郎の姿が印象に残っています。
「例えばスカートの丈の長さとか、和服のデザインとかに非常に厳しかった。うるさかったいうふうに聞いています。わりかしモダンな感じ、それからあの個性を発揮できるようなものが好きだったみたいですね」
發次郎が美術品の収集を始めたのは四十代の頃。
新築した自宅に飾るためでした。
まず興味を持ったのが墨跡。
僧侶が書いた文字や絵です。
こちらは江戸時代の高僧白隠が描いた達磨図。
コレクションの中にはユーモラスな布袋さんの墨蹟も。
發次郎はシンプルが故に作者の個性がにじみ出てくる墨跡が大好きでした。
人気の高かったセザンヌの油絵でも好みでないと見向きもしなかったという發二郎。
そんなこだわりの男は四十五歳の頃運命の作品と出会います。
三十歳の若さでこの世を去った画家、佐伯祐三の「煉瓦焼」です。
大胆な構図と独特の色使いが特徴的な油絵でした。
發次郎はこの絵を見た途端購入を決めます。
その時のことをこう書き記していました。
「胸に動悸うつ異様な感じで、長い間我を忘れて眺めいった。美術の鑑賞ということの結局は悪(こう)であって悪には理屈はないと私は思います」
なぜ發二郎はここまでの衝撃を受けたのか
それは絵の魅力と共に佐伯祐三の人生そのものにひかれたからではないかと専門家は指摘します。
「佐伯はどう何をどう表現するかをを追求する画家なんですよね。そういうオリジナリティの追求みたいなのを佐伯の場合は純粋性として考えて、それでそういう風に最近はパリでやったんですよという一つの物語を發次郎は色々聞いてすごく納得したんだろうと思うんですね」
大阪出身の佐伯祐三は独特の画風で知られる洋画家です。
二十代でパリに渡り、肉体的にも精神的にも追い込みながら、自分にしか描けない作品を追求しました。
体を壊しても絵を描き続け、三十歳で亡くなるという壮絶な生涯。
發二郎は「煉瓦焼」との出会いからわずか五年で主だった佐伯作品百五十点をあつめてしまいます。
しかしそんな發次郎に向けられる周囲の視線は厳しいものでした。
当時は国が戦争に突入していった頃。
美術品の蒐集という行為は時節をわきまえない不要不急の行動と見られたのです。
この頃、自らの収集について語った發次郎の言葉が残されています。
「美術品の収集のようなことは現下のような物騒な時代では何だか時世に反している閑事業。ご道楽のように見られ誤解を招く恐れがあるが、私はよく美術品の収集は永遠的な文化事業であると信じてやっています」
蒐集もまた創作なり
松次郎が生涯を通して大切にしていた言葉です。
「佐伯祐三って言うとこの作品をまず思い浮かべる方は多いですね」
發次郎はこの頃の絵には生命を刻み込まんばかりの佐伯の気迫が感じられると評していまし
「佐伯祐三はその頃地方へ行って、一日に何枚も絵を描くようなことをやっていた。がためにですね体を壊すですね。イーゼルを持って外で書く体力が残っていない。でも絵は描きたいと思ってたら、たまたまこののモデルになった郵便配達人さんが来てくれたんですね。でそれを見た佐伯があなたを描きたいからあの明日また来てくれっていうことをお願いしたんですね。そしたらこのあのモデルの方が来てくれて、でポーズを取って描いたというように言われています。そのあとですねもう二度とこの人来なかったんですね。郵便配達ですからその地域でね毎日来るんじゃないのって言ったらこなかった。もう会うことがなかったその時にこの絵ために来た人かなっていうようなことを書き残しています」
佐伯祐三の絵は存在感があるのに意外に立体的に見えないですよね。だけど何かこの存在感がある
「黒い線だけ取り上げてですね、一つの形になるんですよね。佐伯の生き生きとした線というものに、發次郎は書が大好きですから、お互いの線の持っている力に何か反応するところ
があったんじゃないかなってあの考えています」
發次郎が好きだった個性的な線の描写。
会場では發次郎が佐伯との共通点を感じたかもしれない墨蹟のコレクションを見つけました。
「これは慈雲という人の墨跡って言われるものです。不識って書いてあるんですけども、下にあるのは達磨図ですかね。この筆の動き。この擦れだとかこのスピード感だとか。躍動感であり生命感みたいなものがきっと好きだったんじゃないでしょうかね。これが有名なお坊さんであったからとかじゃなくて、個性だとかここに現れているものを好きだったということなので、色んな分野との行ったり来たりというか、彼のコレクターとしての心の動きというものが収集させてきた。コレクションっていうのは一点一点の作品の素晴らしさってこともあるんですけども、一堂に並べた時にそこに立ち現れてくる個性というのも当然ある」
コレクションっていうその行為がクリエイションだっていうか創造的な行為であるっていうね
發次郎の自宅の庭で取られた一枚の写真。
一緒に写っているのは大学で美術史を学ぶ学生たちです。
發次郎は作品を見たいと言われれば知り合いでなくとも自宅に招き入れたといいます。
「彼は芸術は開かれたものであって個人が占有すべきでないということから広く皆さんに鑑賞してほしいという意味合いから美術館を作りたいという希望はかなり初期から持ってたようです」
作品を広く知らしめたいという發次郎の思いは次第に大きくなっていきます。
1937年、無料で見られる佐伯祐三三展を開催。
自らが企画し作品選びも行いました。
展覧会に合わせるように佐伯の画集も自費出版しています。
カラー刷りの豪華なものでした。
發次郎の次男清雄さん。
發次郎は家族にも画家、佐伯への思いをよく話していました。
「恐らく父は佐伯と巡り合って、佐伯を世間に出す役割を自分が果たす。果たしたということが非常に自分の身にあまる幸せという言葉を使っております。何のために生まれてきたと言うと佐伯を世に出すために生まれてきたと言ってもいいぐらいほれ込みというか、使命感と言いますか、色んなものを感じ取ったと思います」
さらに發次郎は作品を飾る美術館を作りたいという夢を、最近の家族に語っていました。
「自分の辞書に、美術館を建てたいんだ。そこが見てくれ言うて素晴らしいところに建ててあげようか建てようかって言うて、話ししてらした。それはどうやら実現ができなかったようでございます。それはあの頃は仕方がありません。戦争でみんなに潰されてるんですから」
太平洋戦争末期になると本土への空襲も激しさを増します。
美術館をつくるどころか蒐集品を保管することすら難しくなっていました。
この頃、関西への空襲に強い危機感を抱いていた人がいます。
發次郎の蒐集を手伝っていた山尾薫明さんです。
「東京の空襲を見ておりましてね、これはもう蔵なんてのはね、普通の火事には強いですけど、上から来るやつはね瓦突き抜けますからね、あこれだめだと思いますけど、それで慌てて東京の空襲があったあとすぐ行く訳なんです。その時も私はもういつ空襲が来てもいいように防空袋を下げて走っていくわけです」
作品を疎開させたくても、戦時下では輸送用トラックを確保することさえままなりません。
しかし發次郎はある方法を思いつきます。
コレクションしていた宸翰・天皇直筆の和歌や手紙などの文書です。
直筆であるが故に個性が伺い知れると初次論が熱心に収集していたものでした。
うんええっていう宸翰を消失させてはこんな不敬なことはないと軍の司令官に嘆願。
宸翰を運ぶ名目でトラックを手配することに成功します。
そして佐伯祐三はじめ、モディリアーニなどを含むコレクションの一部が岡山に運ばれたのです。
その三週間後、神戸の街は空襲を受けます。
芦屋に合った發次郎の邸宅は全焼。
佐伯作品全体の三分の二が消失するなど、コレクションの多くが灰となってしまいました。
ついえたかに見えた發次郎の美術館建設の夢。
今時を超えて現実のものになりました。