ロバートキャンベルさんが大絶賛する大分・宇佐神宮。鎮守の森から、国宝の本殿まで味わい尽くす!▽人類学者・中沢新一さんが日本最古の神社で語る、神社誕生の秘密!▽ド迫力!世界遺産・熊野那智大社の火祭りに密着▽伊勢神宮・出雲大社・春日大社それぞれの建築様式と、写真家の巨匠が福井で捉えた神社建築の美▽平安の伝統を受け継ぐ、神職の装束▽島根の貴重な「巫女(みこ)舞」▽木村多江も念願の奈良・天河神社へ!
初回放送日:2023年1月6日
美の壺 スペシャル「神社」
山、木、石――先人たちは自然界のあらゆるものや現象に八百万(やおよろず)の神が宿ると信じ、心のよりどころとしてきました。そうした自然への崇敬が、やがて神を祀る場所「神社」の原型となったのです。
神社は人々の願いや思いを受け止める場であると同時に、様々な美を育んできました。千年以上続く島根の神社には、御駒井(おこまい)という特有の舞が代々伝えられています。
世界遺産の熊野那智大社では、十二本の松明(たいまつ)が祭りを彩ります。知る人ぞ知る、ちょっとマニアックな神社の楽しみ方もまた、モダニズムに通じるものです。実際、バウハウスやドイツの戦前の建築家たちも、日本の神社建築に影響を受けたとされています。神社建築には、驚くほどモダンな魅力があるのです。
人類学者の中沢新一さんが語るのは、日本最古と言われる神社について。「ここは古代から神様が現れる場所であり、お祭りが行われる場所ですね」と説明してくれました。
日本を代表する建築写真家が絶賛するのは、福井の山奥にある神社。その神社は、訪れる者を深く魅了する静寂と荘厳さを兼ね備えています。
神職がまとう装束(しょうぞく)は平安時代から変わらない伝統を受け継いでいます。その裏側には、職人たちの細やかな技術と工夫が隠されています。また、神社に欠かせない飾り結び「久美紐(くみひも)」の技も見逃せません。
新鮮なご神饌(しんせん)も、時間と手間をかけて一粒一粒の米に思いを込めて作られています。木村平も、神社の結びの儀式に挑戦し、その奥深さに驚嘆しました。「すごい、こんなに奥深いのか」と。
念願だった奈良の山奥の神社を訪れ、貴重な能面とも対面。その能面に触れながら、受け継がれてきた芸事の歴史に思いを馳せるひとときもありました。
今回は特別に時間を拡大してお届けする『美のツボスペシャル』。神社に秘められた美の世界をたっぷりとご紹介します。
祀る(まつる)
大分県北部にある宇佐市を訪れたのは、ロバート・キャンベルさん。近世・近代の日本文学が専門で、神社にも深い造詣を持つ彼です。キャンベルさんが27歳の時、九州大学に研究生として来日。その調査の合間に訪れたのが宇佐神宮(うさじんぐう)でした。
「大きいですね。遠くから見るとわからないんですけど、本当に大きいですね、この鳥居。」と、キャンベルさんは感嘆します。「空がすごく綺麗に見えるんですね。」と、彼の目には神宮の壮大さが映っているようです。
宇佐神宮の創建は奈良時代にさかのぼり、1300年の歴史を誇ります。全国にある神社の中で最も多いのが、いわゆる「八幡様」であり、その総本宮がこの宇佐神宮です。境内は50万㎡に及び、広大な敷地が広がっています。
「森が全体的に塗り込められたようで、まるで生きたものがその中に収まっているようですね。こんな風景はあまり見たことがないですね。美しいです。」と、キャンベルさんはその壮麗な景観に感嘆します。
宇佐神宮全体は、小椋山(おぐらやま)という小高い丘の上に建てられています。また、キャンベルさんは、神社の周囲に広がる鎮守の森に以前から注目しており、災害時には防災林としての役割も果たしている点に感銘を受けています。
「鎮守という言葉はとても面白いですね。何かを沈め、守るという意味があるんです。怒りや恨みを持った霊や異界のものを鎮めるだけでなく、人々の不安やささくれた気持ちをも静める役割があります。そして、それが自然の摂理と調和し、私たちを守るのだと思います。」
その神聖さに思いを馳せます。
キャンベルさんは、ゆっくりと30分かけて本殿前に到着します。宇佐神宮の拝礼の仕方は独特で、「二拝四拍手一拝」という作法を左から順に 一之御殿、二之御殿、三之御殿、の3カ所で行うのが特徴です。
拝殿の奥に立つ国宝・宇佐神宮本殿。本殿には、八幡大神(はちまんおおかみ)、その土地を守護する地主神である比売大神(ひめおおかみ)、そして八幡様の母である 神功皇后(じんぐうこうごう)が祀られています。建物同士の屋根の軒が接し、金色の問が渡されて互いを結びつけ、一つの本殿として統一されています。
今回、キャンベルさんは初めて本殿を間近で見ることに。柱や床、そして鴟尾(しび)のほとんどが朱色に塗られています。朱色は古代から魔除けや呪術に用いられてきた色であり、神聖な意味を持っていると考えられています。
「バイバイ」と軽く別れを告げた後、ロバート・キャンベルさんは再び宇佐神宮の建築を観察し始めます。「ここは面白いですね。側面から見ると、同じ屋根が『M』と『K』の文字のように見えるんです。八幡造りに独特な形式ですが、まさにモダニズムですね。」
「このモダニズム、バウハウスやドイツの戦前の設計士たちが、日本のこうした神社の建築に影響を受けているんですよね。本当にすごくモダンな感じがします。」
宇佐神宮の屋根は前後に二つ繋がっており、これが八幡造(はちまんづくり)という建築様式です。拝殿側を 外院(げいん)奥を 内院(ないいん)と言い、それぞれ神の昼と夜の場所とされています。
「大きな教会に立つと、例えばヨーロッパのケルン大聖堂のように、本当に上に上に、人間も建築も絵画も彫刻も、みんな昇天することをイメージして作られています。でも、ここはどちらかというと、地面に足をつけて、周りの人々の音や温もり、すれ違った時の匂いまでも全部受け入れて、それが祈りになるような場所です。」
キャンベルさんは静かに語ります。「僕にとっては、不思議と温もりをすごく感じるんですよ。」
今日、一つ目の壺は「思いを託す」
奈良県桜井市田園風景の広がるこの地でひときわ目を引くのが 三輪山(みわやま)です。人類学者の中沢新一さん。
この 三輪山では、神社の始まりと人々の信仰に関する重要な言及を見ることができます。この山の形は円錐形のように見えますが、これは神奈備型(かんなびがた)と言い、古代の人々が最も好んだ山の形だそうです。古代人は、この形の山に神が宿ると考えました。
ここで縄文文化と弥生文化が融合し、日本の神道、つまり民族的な宗教の最初の原型が形成されたのです。三輪山は、ある意味で日本文化の源流ともいえる場所です。
その三輪山のふもとには三輪明神 大神神社(おおみわじんじゃ)があります。日本最古の神社と言われており、拝殿のみで本殿を持たないのが特徴です。これは、三輪山そのものを御神体として祀っているからです。
縄文時代の人々は、自然と一体であり、神様も一体の存在とされていました。神様を特別な存在として遠ざけて祀ることはなく、自分たちも神の一部と考えていたのです。
しかし、弥生時代に入ると、人間は自然を制御し、稲作が発展するなど、徐々に力を持つようになります。すると、自然との距離が生まれ、神様も人間から少し離れた存在になってしまいました。こうして、神と人間の間にできた距離を再び埋めるために、祭祀が必要となったのです。
中沢さんは拝殿に参拝した後、脇道へと歩き出しました。「日本の神社を見るとき、神社の脇に注目するのがとても重要なんです。古い神様が祀られていることが多い場所です」と語ります。ここには、古代の神社の原型ともいえる祭祀場が存在すると中沢さんは言います。脇道にある 磐座神社(いわくらじんじゃ)
「これが、古代の神様が現れる場所であり、祭りの場でもあります。『岩倉』とは、大地の下から力が湧き上がり、この世に姿を現したものを指します。その岩倉を祀ることが、信仰の基本形態だったのです。」
中沢さんによれば、神様とは特定の存在ではなく、見えない世界から見える世界へと立ち現れる、その全体の動きが「神」とされているのです。
見えない神の思想が形となって現れたものが、三輪山の姿であると考える中沢さん。この大宮神社の背後には、見えない存在——それは死や闇の世界かもしれません——が感じ取れます。それをすべて含めたものを、この山の中で感じ取ることができれば、古代の人々に一歩近づけるでしょう。
神社は、古代の人々の思いや信仰を今に伝え続けているのです。
自然
十月、白樺の林を抜けて長野県松本市にある上高地。ここは、北アルプスを間近に望む、日本を代表する山岳リゾートです。多くの観光客や登山客が訪れます。
この「上高地」という地名は、一説には神の降る(くだる)地「神降地(かみこうち)」から来ていると言われます。
川沿いの道を歩くこと一時間。鳥居が見えてきました。さらに奥へ進むと、小さな社、穂高神社(ほたかじんじゃ)奥宮に到着します。標高1,500メートルにあるこの神聖な祈りの場の背後には、この土地ならではの信仰の対象を見ることができます。
それが 穂高岳、標高3,190メートルの奥穂高岳を中心とする山々です。山のふもとに広がる明神池も、神社の境内に含まれます。江戸時代の資料には、明神池は 霊湖(れいこ)と記されており、当時から神秘的な場所とされていたことがわかります。
「池は山からの湧き水がたまってできたもので、常に伏流水が湧き出ているため、冬の氷点下でも全面凍結することはありません。水面には岩が顔をのぞかせ、木々とともに極上の景色を作り出しています。」穂高神社権禰宜の 穂高賢一さん。
約2,000年以上前、この地に移り住んだ人々は、雄大で豊かな連邦(山々の連なり)に感銘を受けたと言われます。その時に、おそらく帆高の狼(神)が小山に降り立ったと考えられています。そして、神がその後、明神池にも降り立ったのではないか、と信じられているのです。
今日、二つ目のツボは「森羅万象に祈りを捧げる」
和歌山県南部、緑の山並みが続く熊野の地。この地域は熊野那智山(くまのなちさん)として世界遺産にも登録されています。特に目を引くのが那智大滝(なちのおおたき)で、その落差は133メートルで、日本一を誇ります。この滝は古くから御神体として信仰の対象となってきました。
鎌倉時代後期に描かれた国宝『那智滝図』には、神格化された滝の姿を見ることができます。滝を間近に望む山の中腹には、人々が祈りを捧げる熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)があります。
もともと滝に祀られていた神々を、約1,700年前に現在の社殿に移したのが、熊野那智大社の始まりとされています。
毎年7月、一年で最も重要な霊祭。「火祭り」として広く知られる 那智の扇祭り(なちのおうぎまつり)が行われます。この祭りの主役の一つが、扇神輿(おうぎみこし)です。細長い木枠に朱色の布と扇が貼られたもので、那智の滝を模しており、全部で12体あります。
もう一つの主役が、大松明です。こちらも12本あり、ヒノキの板を100枚以上束ねて作られています。大松明の火で扇神輿を清め、昔から信仰の対象である那智の神を迎えるという形で火を使います。
松明の重さは50キロあり、12人の氏子がこれを30分以上担ぎ続けます。
今回、四番松明を担当する 村井弘和(むらい ひろかず)さん。担ぐのは今年で5回目になります。
「12本の松明を無事に下まで降ろし、神様をお迎えするという大切な役割があります。みんなで力を合わせて、無事に終わらせたいと思っています。やっぱり落とせないですからね。そこが一番重要です。」
午前10時、祭りが始まります。「せーの」という掛け声を合図に、那智の大滝に向かって大松明が出発。500段以上の階段と坂道を下り、滝へと進んでいきます。
続いて、扇神輿も出発。神輿が神社から滝へ向かうことは、神がもともといた滝へと帰る「里帰り」を意味しています。
滝と神社の中間地点で扇神輿が一時的に止まる頃、大松明は滝の下に到着。そこで燃え盛る松明を掲げ、担ぎ手たちは再び参道へと戻ります。
松明を地面に叩きつけるのは、炎を安定させ、担ぎ手に燃えた部分が落ちてくるのを防ぐためです。さらに、炎の勢いによって松明の重さが増し、担ぐのが一層重たく感じられるのだとか。
山道を下りてきた扇神輿と大松明が出会い、12本の松明が石段を上ったり下りたりしながら、神の通り道を清めていきます。赤々と燃え上がる炎、大松明、扇神輿、そして人々の掛け声が一つになり、祭りはクライマックスを迎えます。
炎で清められた山道を進み、ついに滝の前に到着した大木。こうして、神は多くの人々の手を借りて、滝へと無事に里帰りを果たしました。
「お疲れさまでした。大変でしたね。肩のあたりが特に辛そうですね。」
「ええ、やっぱり滝の水で体もびしょびしょになりました。肩に重い木が乗っているので、罪や穢れが流されてくる感じがして、黒くなりますね。」
「それに、水をかけて湿らせておかないと、炭が落ちてきたときに燃えてしまうんです。だから、水と汗で体がびしょびしょです。」
最後には、松明の担ぎ手たちによる羅幕舞(らばくまい)という舞の奉納が行われました。古くから続く自然への感謝と祈りの風景が、ここにしっかりと息づいています。
木村多江さんの神社旅
京都市中京区、二条城のほど近く、神社を美しく飾る文紐の工房・鍵辨紐房店(かぎべんひもふさてん)をお邪魔しました。
「こんにちは、おいでくださいました。」
「木村多江ですよろしくお願いいたします。」
「どうぞお入りください。江戸打ち(えどうち)っていう組紐なんですけれども、それを手組みで組んでいる台です。」
鍵谷さんの工房は大正三年創業。神社や寺で使われる様々なものを彩る飾り紐や房を作っています。現在は機械での製作が主流の組み紐ですが、手組みの工程を残し伝えています。どうやって紐を組むのか、鍵谷さんの母、靖子(やすこ)さんが見せてくれました。
リズムでトントントントンって組んで行きます。
「実際はどれくらいのスピードでやってらっしゃるんですか。」
「こんな感じですね。」
手組みの紐は神職の装束にも多く使われています。紐はそのまま使うだけでなく、様々な結びをされて、真榊(まさかき)のお守り など多くのものに使われます。結びは鍵谷さんたちの大事な仕事です。
「これが叶結び(かのうむすび)なんですけれども。」
前から見たら四角。裏返すと十。口辺に十でかなう漢字の金具に似ているので縁起がいいという叶結び(かのうむすび)結び。
「折り紙のこの間に折りたたんでください。」
私も教えてもらいます。
「こちらにこの紐を最初の折りたたんだこの間に通してください。」
「一度表を離していただいて、時計が反対もあるんですね。」
「反対側に持ちはいできた。」「上手です。」「かわいいなんか勢いにこう、一本の紐があるそうなんです不思議ですね。魔法のよう。」
最後は職人の方でも苦労するという結びを教えていただきました。明日から結ぶのは、高松塚古墳の壁画にも描かれている「総角結び(あげまきむすび)」です。この結び方は神社では最もよく目にするもので、魔除けの意味があるといいます。
「さっきのより簡単そうに見えたので、気楽に考えていたんですが、実際は適当な大きさに調整して、そこに通してグーッと引っ張ると、少しずつ締めていくんですよ。でも、必ず『トンボ』って言うんですけどね、トンボの形に似てるんです。どうしても歪むので、そのねじれをこう、ひねりながら締めるんです。そうそう、そうやって、下に引っ張って、ちょっとずつ調整していくんです。本当に手の動き一つで形が変わってしまう、密かに難しい結び方ですね。」
この総角結び。御幌(みとばり)などに使用する際は、同じ大きさのものを八つ並べて結びます。
「ということで、長い紐に変えて、再度挑戦です。等間隔に並ぶように結びます。微妙にねじれますもんね、それを直しながらやるんです。やっぱりこの糸の目が揃っている方が綺麗なんですね。ああ、ちっちゃくなっちゃいましたね。細かいことが気になり出すと大変ですね。いうこと聞いてくれない感じで、ちょっとハマってしまいます。」
「こういう小さな、本当に細かいことでも、ねじれを綺麗にして組んでいくってことが大切なんだと実感しました。ただ結んでいるだけじゃなく、思いを込めてやることがすごく大事だと感じましたね。大変なお仕事ですけど、やりがいがありますね、本当に。」
細部にまで徹底してこだわること。それもまた、神社の美の一端を担っていました。
翌日、奈良市内から車で二時間余り奈良県吉野郡天川村にやってきました、「こちらですね。」訪れたのは大峯本宮 天河大辨財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ)別名:天河神社(てんかわじんじゃ)。
飛鳥時代からこの地に立つという由緒ある神社です。
「清々しい空気が済んでますね実はここ私が兼ねてから行ってみたいと思っていた神社なんです。」
拝殿には 能舞台(のうぶたい)。そして独特の形をした大きな鈴 五十鈴(いすず)があります。芸事を生業とする人が多く参拝するところとして有名なこの神社。外とは全く違う濃密な空気を感じます。なぜ芸事に携わる人が多く訪れるのか、宮司の柿坂匡孝さんに伺いました。
「ご祭神は市杵島姫命のこと。一般的には神仏習合の形で、弁財天という大神様をお祭りしております。もともとは水の神様が本体で、その川のせせらぎの音や、海の定波の音など、音を発する場所から音の神として信仰されるようになりました。音が鳴ると、人は自然に体を動かしたくなるもので、それが今の舞や踊りに繋がっているのです。そのため、芸能を志す方々が多く参拝される神社でもあります。水の音から始まった信仰だと考えると、私も役者の端くれとして、音や自然の音に心が浄められる思いがします。」
天河神社の拝殿には、能舞台形式の神楽殿があります。天河神社と能の関係は室町時代にまでさかのぼり、能を大成した世阿弥の息子、神勢十郎元正が、苦境にあった能の再興を願ってこの神社を創建しました。その際に奉納された能面も伝えられており、室町時代から江戸時代にかけての名作が残されています。その伝統は、写しによって忠実に受け継がれてきました。
「神楽殿に立ち、能面をつけたとき、ただ自分のためでなく、人々の心と体、魂の平和を願いながら舞うことが大切だと感じました。」
かたち
全国各地にある神社、その建築様式は様々です。伊勢神宮の昇殿、掘った手柱に茅葺き屋根、檜の白木作り、唯一「神明造り」と呼ばれます。出雲大社、本殿の高さ二十四メートル、本殿としては日本一の高さを誇ります。「大社造り」という出雲地方に特徴的な建築様式を今に伝えます。春日大社、本殿、檜皮葺きの屋根は、正面に大きく日差しを突き出す独特の形。「春日造り」と呼ばれます。
神社建築に魅せられた人がいます。藤塚光政(ふじつか みつまさ)さん、六十年にわたって建築写真を撮り続け、安藤忠雄さんや熊健吾さんなど多くの建築家が信頼を寄せる写真家です。藤塚さんがこだわって取ってきたのが日本の木造建築。各地の神社も数多く撮影しています。そんな藤塚さんが特にお気に入りだというのが、福井県越前市にある大滝神社。創建は六世紀終わり、現在の社殿は江戸時代後期に再建されましたこの地域は越前和紙の里として有名で、紙造りの神様が祀られています。
屋根は重厚で複雑な構造。社殿の至る所に彫刻が施されています。鳳凰や龍など、今にも動き出さんばかりです。永平寺の直指紋も手がけた大久保寛左衛門の技が光ります。
「現代建築でも、風呂を計画したりするのは建築家だとか、建築家もそうだけど、どういう発想でこれを考えたんだろうか。だから多分、この大滝神社様っていう名前だから、多分こう水の豊富で和紙の里ですよね。大滝神社様って名前から来て、多分大きい滝の下の滝壺の波がイメージされたんじゃないかと。」
社殿の最も高いところはおよそ十メートル。屋根の上にさらに小さな屋根が重ねられ、四段の滝のごとく流れ落ちてきます。ひとの字型の千鳥破風と、アーチ状に盛り上がる唐破風の組み合わせです。藤塚さん、ここでカメラを構えますが、「張り出しに当たんねぇとつまんねぇな」と。太陽の当たり方が気に入らなかったようです。
待つこと一時間。「全ての建築はみんな止まってると思うんだけどさ、全然止まってないんだよね。もちろん光の当たり方が変わるし、自分も気持ちが変わってるじゃない?」そして、「いや、二十四度です。ここにちょっと日差しがあります」。本殿と階段のごく一部だけに日が当たった瞬間をとらえました。そして、すぐに反対側へ。少し考えて、今度はカメラを縦に。
「昔の人は、僕らの祖先はやっぱり木造建築を人間の体と同じように新陳代謝として捉えている。だから、樹木の時にすでに木の知性を認めていて、それで対話していたようなところがあるね。」
今日、三つ目のツボは「時を越えて息づく」
平安時代、貴族の男性が纏っていた衣装があります。狩衣はその名のとおり、もともとは鷹狩などで使われていましたが、その後、貴族の日常着となりました。現代では、神社に仕える神職たちの装束として受け継がれています。
薄い生地に立体的に表現された紋様、そして立ち上がり楕円を描く首元は、平安時代からの伝統に則って作られています。装束の制作は、複数の職人が分業で手がけます。京都市上京区 の織師 藤井秀敏(ふじい ひでとし)さん。
ここでは生地作りが行われており、シャトル織機を用いて絹糸で織り上げています。特に風合いを出すため、糸を水に浸してから横糸として使用します。「濡らすことで、生地がピシッとした張りのある仕上がりになります」と語ります。水に濡らした糸は乾燥すると縮むため、織り上がった後すぐに小さな針のついた竹板を使い、目を整えます。これは非常に繊細な作業であり、職人は生地を離すことができません。
さらに、紋様を美しく見せる工夫として、デザイン時にわずかに左右対称を崩す技法が用いられます。こうすることで、完全な左右対称よりも整った印象を与えるのです。
生地が織り上がった後は、竹ひごの両端に針をつけた「伸子(しんし)」という道具で生地を伸ばす「張り」という工程に移ります。材質によって、竹ひごの太さや間隔を調整し、米を材料とした「姫のり」を使って紋様を痛めないように丁寧に仕上げます。
仕立ての際、最も重要なのは見栄えです。生地同士を縫い合わせる際、紋様がずれないよう緻密に調整し、ざっくりとした縫い目にすることで、張りのある生地にしわが出ないようにします。特に首回りの仕立ては難易度が高く、硬い紙の芯を布で巻いたものを縫い付ける作業は力を要します。梶岡さんは、首元の形に沿って小手で折り目をつけながら、微調整を重ねていきます。「曲がり始める位置で形が大きく変わるため、慎重に見極めながら折り目をつけます。」と彼は語ります。
梶岡さんは装束の仕立てを始めて七年目。装束には型紙がないため、昔のものを参考にしながら日々技術を磨いています。「神社から送られてくる衣装をほどいて内部を調べることで、技術の継承につながる発見があります。」
こうして、すべてが美しく揃った紋様と、すっと垂直に立ち上がった首元が完成し、平安の伝統が今に引き継がれています。
伝承
奈良県桜井市多武峰(とうのみね)。山深いこの場所に、地元の人々に愛されている神社があります。 談山神社(たんざんじんじゃ)です。創建は701年で、祀られているのは藤原鎌足。鎌足の没後、長男が彼の遺骨の一部をこの地に移し、神殿を建てたのが始まりと言われています。
10月には、藤原鎌足への感謝と秋の実りを捧げる 嘉吉祭(かきつさい)という祭りが行われます。祭りの一週間前から、夜になると社務所には神社の関係者と地元の人々が集まり、神聖なご神饌(しんせん)百味御食(ひゃくみのおんじき)作りを行います。
まず、麦わらを束ねて芯を作り、そこに様々な秋の恵みを飾りつけます。リンゴ、ナス、そしてナツメなど、10種類以上の野菜や果物が使用されます。さらに、この神社には独特のご神饌・米御供(こめごく)があります。3,000粒もの米粒を使って幾何学模様を描くもので、その模様は家ごとに工夫が凝らされています。
上杉聖子さんは20年以上にわたって米御供作りを続けています。彼女はリング状の和紙にのりをつけ、染めた米粒を一つ一つ丁寧に貼り付けていきます。模様を崩さずに美しく仕上げるには高い集中力が必要です。
「一周するのに25分はかかるんです。夜は静かなのでやりやすいですね。昼間にやるときは、電話も出ずに集中しないと、形が膨れたり縮んだりしてしまいます」と上杉さんは語ります。「鎌足様に捧げるものですから、見た目も美しく、やっぱりこれを作らないと秋が来た気がしませんね。」
祭りの二日前には、完成した米御供が持ち寄られ、餅や様々な飾りを加えてさらに華やかに仕上げられます。上杉さんの家族も、代々伝統を守りながら、こうした作業を手伝っています。
10月9日、いよいよ「書き伝え」の当日。室町時代から続くこの祭りが始まります。完成したご神饌は氏子(うじこ)たちによって手渡しで運ばれ、最後は神職の手で本殿へと納められます。
祭りが終わると、ご神饌は拝殿に移されます。世代から世代へ、地域の伝統が大切に受け継がれてきたこの「ご神饌作り」は、これからも続いていくでしょう。
今日最後の壺は「つなぐ心」
島根県松江市美保関町、日本海に面した港町です。港からすぐのところに、美保神社の鳥居が見えます。この神社は、出雲国風土記にもその名が記されており、恵比寿様の総本宮として知られています。
朝9時、神職たちに続いて巫女が拝殿に入っていきます。これから始まるのは朝の神事。この神社では、巫女が重要な役割を担っています。まずは祝詞(のりと)、続いて巫女による舞の奉納が行われます。
かつて巫女は、祭りの際に聖者や死者の霊魂を招いてその姿を述べたり、祈祷を行ったりしていたと言われます。一つ一つの舞の所作の意味は秘伝であり、巫女から後世へと代々伝えられてきました。拝殿には、巫女が鳴らす鈴や笛、太鼓の音が響き渡ります。
美保神社においては「御幣(ごへい)」という儀式が重要な要素とされ、少なくとも江戸時代には、専属の巫女を擁する家系が五家存在していたと伝えられています。特にその中では、男性よりも巫女が上位に位置づけられる歴史もあり、それだけ重視された役職であったことが分かります。
舞を舞うのは濱野香菜さん。高校生の時に祈りを本職とする生き方に感銘を受け、念願の巫女として神社に奉仕しています。普段は神社の仕事に専念していますが、今回初めて取材の許可がおりました。
「舞っている時、自分の中から深い感謝の気持ちが湧き上がる瞬間があります。それが祈りなんじゃないかと思っています。ただただ神様に喜んでいただけるように、という気持ちで舞っています」と語ります。
美保神社とともに生きてきた美保関の町は、小泉八雲や島崎藤村などの文豪にも愛されました。しかし近年では、人口が年々減少し、若い人も少なくなってきています。
午後3時半、この神社では朝夕二回、神事が行われます。祈りを込めて、巫女は舞い続けます。
「巫女という職は、成り手が少ないのが現状です。伝承を続けることが大変だと感じる部分もありますが、何百年も続けてきたことですので、できる限り守り続けていきたいと思います。」
その土地の人々と共に時代を歩んできた神社は、これまでも、そしてこれからも、人々の思いを受け止め続けます。