美の壺 600回記念!「能」<File600>

室町時代に能を大成した世阿弥の末裔、二十六世観世宗家・観世清和さんが、観世家に伝わる極上の「能面」を大公開!世阿弥伝来の貴重な鬼の面をかけて舞う!▽舞台を彩る「能装束」。京都の工房の職人技とは?▽金剛流二十六世宗家・金剛永謹さんは、詩情をもたらす能装束の奥深き世界を紹介!▽幽玄の美を生み出す「能舞台」。国立能楽堂と厳島神社(国宝)の能舞台から、異界と通じる仕掛けにも注目!<File600>

初回放送日:2024年3月20日

美の壺 これまでのエピソード | 風流

美の壺 600回記念!「能」

舞台で繰り広げられる優雅な舞、日本が世界に誇るです。今から600年前、能楽師の世阿弥によって大成されました。

能の象徴とも言える能面は、神や精霊から鬼まで、その種類は実に多様です。能楽師にとって能面は自分の「顔」とも言えるもので、と呼ばれています。「内面的なエネルギーを溜め込み、能面をかけることで、その力を発揮できるのです。能面をかけないと負けてしまうんです。」

舞台を彩る煌びやかな装束は、日本の織物文化の粋を集めた芸術品です。「能で一番大事にするのは幽玄という考え方で、勇気がその根底にあります。幽玄とは、能の装束を生み出す巧みな職人技の結晶です。今も伝統の製法で、一つ一つ丁寧に織り上げられています。」

装飾を省いたシンプルな能舞台。そこは、異界の者たちが現れる神秘的な空間です。

世阿弥が600年前に大成した能は、日本文化の真髄と言われます。世界最古の演劇の一つとされる能は、もともとは中国からもたらされた散楽という芸能や、神々への素朴な舞にその起源があります。世阿弥はそれを昇華させ、この世ならざる者を舞台に導き出す、幽玄の能を生み出しました。

面(おもて)

東京銀座の商業ビルの地下にある観世能楽堂(かんぜのうがくどう)。そこに、世阿弥の末裔である二十六世観世宗家(かんぜそうけ)観世清和さんがいらっしゃいます。観世家には数百点もの能面が伝わっています。

「平安時代の頃の作といわれている 翁の面(おきなのおもて)です。我が家の祖である世阿弥の伝承にも、この翁面に関する記述が残っています。」

世阿弥の芸談を息子の元能(もとよし)がまとめた申楽談義「世子六十以後申楽談儀」には、この翁面は弥勒という仏師によって作られたと記されています。千年の時を超えて伝えられたこの翁面は、今も現役で舞台に立ち、天下太平の祈りを捧げます。

赤くほてった少年のような顔を持つのは、猩々(しょうじょう)という面です。これは海に棲むお酒が大好きな精霊です。

そして、能面の代表的なものとしては、女性の面である小面(こおもて)**があります。理知的で上品な 若女(わかおんな)。一方、近江女(おうみおんな)。目元が魅惑的で、激しい情念を感じさせます。

「小面には、清らかで美しい一方で、どこか闇を感じさせる要素があるんです。」

道成寺という演目では、大飛出は裏切られた娘の怨霊を表現します。舞台の後半では、その娘が蛇の化身となって現れ、怒りと悲しみを体現します。能面には口が耳まで裂け、牙が生えていますが、そこには女性の悲しみが宿っているのです。

「道成寺を演じる際、この悲しみをどれだけ表現できるかが役者の実力を試す場です。リアリティを超越した度量が求められる能面だと思います。」

今日、最初の壺は「時空を超え 宿される魂」

観世家に残る世阿弥の直筆の風姿花伝には、能の奥義が記されています。世阿弥は、鬼の能を得意とし、「鬼は恐ろしさだけでなく、美しさを持つことが重要だ」と説いています。世阿弥が愛用したとされる能面**小癋見(こべしみ)**は、口元が「への字」に曲がり、緊張感が漂う一瞬の表情を捉えています。

観世清和さんがその小癋見をかけます。舞台の袖にある鏡の間は、能の主役であるシテが能面をつけるための神聖な空間です。

「鏡の間で面をかけると、世阿弥がまだこの面を使いこなせないよ、と囁いているかのような緊張感が漂ってきます。」

「こめかみというのは、実は急所なんです。この急所を、能面の面紐でギリギリと締めることで、非日常的な世界に入るというか、半ばトランス状態に入るような感覚があるのかもしれません。」

「**小癋見(こべしみ)**は、閻魔大王の役で用いることが多いです。雪氷の罪を犯して殺された者が、仏の慈悲によって救われるという物語の中で使います。」

「能面には、左目と右目に穴が開いていますが、その穴から見える視界は、左右で交わることはありません。つまり、左目と右目で見える風景が異なっているのです。これが、いわば第三の目となり、もう一つの別の世界に身を置く感覚を味わいます。肉体的にも精神的にも抑制された先にあるもの、それを求めているのではないでしょうか。」

鵜飼(うかい)」という能では小癋見は閻魔大王(えんまだいおう)の役に用います。

能楽師が自らのすべてを捧げ、あの世とこの世の境をさまようとき、能面に命が宿ります。

装束

京都市上京区には、能の五大流派のうち唯一京都に拠点を置く金剛流宗家の能楽堂があります。26世宗家の 金剛永謹(こんごう ひさのり)さんのもと、金剛家には500点にも及ぶ能装束が伝わっています。

「これは唐織(からおり)という織物の装束です。唐織は金糸や銀糸などの色鮮やかな色糸を使った非常に豪華絢爛なもので、主役が演じる際、舞台上に装飾がないため、装束が唯一の華やかさを引き立てます。そういった意味で、とても重要な存在です。」

こちらは織物の最高峰とも称される紅地筏桜花文唐織です。金糸や銀糸を使い、桜と筏が織り込まれた「花筏」と呼ばれる模様が施されています。能装束は、安土桃山時代にきらびやかになり、江戸時代にさらに洗練されました。

紺地紫田燕文銀欄法被は、武将や鬼などの役に用いられる装束で、モダンな銀襴模様が力強さを醸し出しています。

黄地花菱撫子文縫箔は江戸初期に作られた縫箔(ぬいはく)という装束。全面に撫子(なでしこ)の刺繍が施された豪華な作りです。

時の移ろいが生む色の調和が、品格を引き立てています。舞台に自然の美しさを引き出すのも、能装束の役割です。

「こちらの縫箔に描かれているのは、秋の風景です。スズメが稲穂に驚いて飛び上がる情景が、細かい刺繍で表現されています。空には金箔で雲が描かれていますが、この雲を観客が目にすることはほとんどありません。」

たとえば、隅田川の演目では、高価な縫箔は上着に隠れて裾の部分しか見えません。役柄は、我が子と生き別れた母親で、長い旅を続けて子供を探している設定です。本来ならば、装束は汚れているはずですが、能ではそのような汚れは表現しません。

「能で大切にされるのは幽玄(ゆうげん)です。幽玄とは、たとえば役柄が貧しい人物であっても、きれいな装束を着て舞台に登場するところにあります。豪華な装束が生み出す抽象的な美、それが能の幽玄を引き立てるのです。」

今日の二つ目の壺は、「装束が生み出す幽玄の世界」

平安時代から織物の産地として栄えた京都の西陣には、創業120年を超える能装束の工房があります。能楽師たちの注文をもとに、一点一点手作業で製作しています。今でも使うのは昔ながらの手織り機。主に江戸時代の装束の見本をもとに、伝統の技法で織り上げていきます。

「手織りの独特な風合いは、機械織りとは全く異なります。その日の天候や手加減によって、織り方を変えないと、舞台での舞いがしやすい質感に仕上がりません。」

最上級の織物に用いる絹糸は、約200色。能装束に独特の艶と柔らかな風合いをもたらします。こちらで織られているのは、脇役が身につける男性役のための装束です。縦糸に発色の良い色を使い、横糸で幾何学模様を織り込んでいきます。参考にするのは、江戸時代に作られた見本です。

「細い縞模様は、舞台の近くからはほとんど見えないかもしれませんが、やっと色が変わっているかな、という程度です。これは、精神性や役者の気持ちの問題かもしれません。」

最高の舞台を支えるために受け継がれてきた、精緻な職人技がここにあります。

舞台

国内最古の能舞台・北能舞台。白洲を挟んだ向こうにあるのが兼所。

ある書院が検証かつて屋外で行われていた園農は、明治時代に屋内へと移されます東京渋谷区にある国立農学堂、様々な脳部隊の研究をもとに設計され、昭和五十八年に開城しましたご覧ください、これが国立農学堂の舞台空間です これは大きな農学堂という空間の中に、入れ子式にこういうふうに切り詰まり屋根を持った農部隊が入っているということがお分かりになると思います近代的な建物の中に日本建築、一見不思議な作りをしています舞台の左側 には農部隊の特色とも言える橋がかりと呼ばれる通路舞台へ向かって緩やかな上り傾斜になっています屋外にあった頃の名残を伝えるしらすそして橋がかりの下には三本の松遠近感を出すため、奥へ行くほど低くなる工夫がなされています白木の陽の木の本部隊、京馬の三原、およそ六メートル四方ですその奥、鏡板と呼ばれる大きなはめ板には立派なおいまつお松は神聖な木とされ、農はこの松を背景にして演じられますやはり 神のより、城といいますか、何か上から心霊的なものが降りてくる目安としての末というものを考えていいんじゃないかなというふうに思いますねそぎ落とし生まれる美の世界それは橋がかりの向こうにある鏡の間が生み出す世 界と深い関わりを持っていると言います普通の舞台では本部隊とというのは切り分けられた存在になるんですけれども、東部隊では学や一見楽屋に見えるような鏡の間というのが非常に重要な役割を果たしていて、この闇の空間と言ってもいいかもしれませんあるいは明快な空間と言ってもいいかもしれませんが、こういう鏡 の間が上げ幕によって隔てられていて、これは全世界の舞台空間の中でも、とても珍しい、あるいは特殊な空間であると言ってもいいかもしれません執念を捨てきれずにいる亡霊や鬼、さらにはこの世をことほぐ神など

生徒氏の境界である橋がかりを通じて現れる異界の者たち。ストーリーをも超えた世界を導き出す。

今日、最後の壺は「客人(まれびと)たちが輝く 異次元の空間」

異次元の空間、秋の宮島には、千四百年の歴史を持つ厳島神社があります。ここには国内で唯一、海に浮かぶ能舞台があります。潮の満ち引きという大自然さえもが演出の一部となる、壮麗な舞台です。毛利元成の命により、関西流の能が奉納されたことが、その起源とされています。

毎年秋、潮が満ちる満月の夜には、ここで幻想的な舞台が繰り広げられます。この日の演目は、佐賀天皇の王子である源 融(みなもと の とおる)が主人公の物語です。中秋の名月の日、橋掛かりを通じて、通るの亡霊が老人の姿で現れます。

本舞台に立った老人は、旅の僧として、かつてこの地に源の通るの美しい庭があったという昔話を語ります。後半、僧が眠りにつくと、アリシヒの気配と共に死の姿で現れた通るが、月明かりの下で華麗な舞を見せます。そして、夜が明ける頃、再び橋掛かりを通り、月の都へと帰っていきます。

削ぎ落とし生まれる究極の美、六百年以上にわたり受け継がれてきた幽玄の世界です。